トリスバー ~ 松山の「バー露口」
ドラマ「マッサン」以降、ウィスキーブームが続いているようで、日経新聞の連載小説も鳥井信治郎とその末裔についてのものが掲載されている。 今でこそ、ブランドとしての地位を確立した日本産のウィスキーだが、定着するまでには長い年月と努力が必要だった。
第二次世界大戦後に、一般の人々にウィスキーというものを飲んでもらうためにサントリーが全国に広げたのがトリスバーである。 トリスウヰスキーという名称は、1919年(大正8年)に発売されているが、これは果実酒であり、現在のウィスキーとは異なっている。 1946年(昭和21年)にトリスウィスキーが発売される。庶民向けの低価格ウィスキーとして売り出され、その後、サントリーの主力ウィスキーとして成長していく。戦後復興、経済成長に伴って、サラリーマンの懐も徐々に温かくなり、その財布を狙って、昭和30年代になると洋酒メーカーが現在で言うところのフランチャイズ方式でバーを募集していく。山楽オーシャンならば、オーシャンバー。ニッカならばニッカバー。そして、サントリーはトリスバー。 トリスバーは最盛期には、全国に1,000軒を越したと言われるほどだった。しかし、その後、次第に姿を消し、現在、以前からのトリスバーとして残っているのは数軒だけだと言われる。
そんな中の一つが、松山市のバー露口だ。1958年創業の13席のカウンターのみの細長い店内には、歴史を感じさせる数々のボトルや色紙が飾られている。
ここの名物は、もちろんハイボール。もうすぐ創業60年を迎えるマスターご夫妻がカウンターの中で微笑んでおり、松山の歴史やウィスキーの歴史など、様々なお話を伺えるが楽しい。夜も更けてくると、満席となり、他のお客さんのお話にも耳を傾けるのも楽しい。 テレビドラマや小説などだけでは知りえない、洋酒メーカーの歴史の一端を知るには、こうした場所に出かけねばと、、、、言い訳である。
※バー露口 http://tabelog.com/ehime/A3801/A380101/38000358/