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【looks back on 2010】百貨店閉店ラッシュ

 2010年を振り返ると百貨店の閉店が各地で起き、ある意味で、地域経済の衰退と商業の問題が顕在化した一年だった。下記の図は2010年に閉店になった主な百貨店(松屋浅草支店は店舗縮小)をまとめたものだが、この図以外にも閉店もしくは閉店が年内に発表された店舗もある。

 閉店する現場に立ち会ったのは、新潟の大和新潟店の閉店だった。

 閉店前夜新潟入りし、6月25日、閉店当日は店舗や周辺の様子や、郊外の大型ショッピングセンターなどを視察した。

 夕方、NHK新潟放送局で放送された新潟日報との特別企画番組『街の灯よ』にコメンテーターとして出演させていただいた。

 閉店当日、大和新潟店には多くの人が訪れ、66年間に及ぶ歴史に名残を惜しんでいるようだった。しかし、視察に訪れたイオン新潟南ショッピングセンターは金曜日の昼間だと言うのに車は満車に近く、店内には多くの家族連れで賑わっていた。市内に戻るために乗車したタクシーの運転手は、「大和が無くなってさびしいけれど、自分も年に数回しか行かないしねえ。昔と違って、みんな車に乗っているから、うちの娘夫婦も買い物と言えば、郊外のショッピングセンターだ。雪が降って寒い時期にも、暑い時期にも一旦、入ってしまえば気にしなくていいからね。」と話してくれた。さらに、「佐渡からの汽船乗り場で待っていると、土日や学校が休みの日には家族連れでイオンまで乗るお客が結構、拾えるんです。自分もなんでだろうと思って聞いてみたら、ポケモンの映画だっていうんです。佐渡には映画館がないから、子供を連れて来るんですよ。子供が映画見ている間、親はくつろいでいられるし、ゲームセンターやなんかもあって、いわばテーマパークに来るみたいなもんですね。」とも教えてくれた。 

YouTube: 大和百貨店新潟店最後の日(2010年6月25日)

 新潟で話を聞いた地元の人たちは、一応に「さびしい」が、しかし「時代の流れだ」という意見が多かった。新潟市内は、大和のあった古町商店街周辺と、バスターミナルのある万代シティ周辺の二極化が進んできた。万代シティ周辺には、若者向けの店舗が入り、集客力の点でもこちらが強くなってきていた。実際、閉店翌日に万代シティにも行ってみたが、多くの人で賑わっていた。

 年末に新潟市商店街連盟が発表した通行量調査(2010年10月に実施)によると、旧大和新潟店前の古町通沿いでは、前年比28%減と、大幅な落ち込みとなった。これは大和の閉店だけではなく、同じ地区にあった老舗書店・北光社や商業ビルWITHの閉店などが相次ぎ、それらの負の相乗効果が出たとみられている。

 地元にとって核となる商業施設の消滅は、集客力に大きな影響をもたらしたことは間違いない。大和新潟店は、66年間の歴史の中で、新潟の中心市街地のシンボル的な存在であった。ピークは、1993年、売り上げは200億円を記録した。しかし、バブル崩壊以降、一貫して売り上げ高は減少し続け、70億円まで減少。この10年間は連続して赤字だった。

 売り上げ低迷からの脱却を図るために様々な方策が講じられたが、ファストファッションなどの導入は見送られ、逆に百貨店の強みである美術品や工芸品に力を入れる戦略、そして東京都心での成功事例から高級品路線を採った。番組の中で、関係者は、この選択が結果として間違いだったことを認めていた。建物も老朽化し、中高齢者層が中心顧客になった結果、若年層の顧客確保に出遅れることとなった。

 こうしたことの結果が、今回の大和新潟店の閉店である。もちろん前年比で3割近いマイナスを記録した通行者の減少は、大和閉店の影響も大きいことは確かである。しかし、中心市街地の集客力そのものも減少してきたことも見落としてはいけないことである。P1060840_3

  今回、地元の商店街で新しい店舗をオープンさせている若手経営者の数人に話しを聞くこともできた。彼らは、まずこの商店街の賃貸料の高さを指摘していた。かつて新潟一の商店街であった誇りや、バブル期の土地価格高騰期の名残なのか、依然として賃貸料が他と比較しても高いのだと言う指摘だ。

 もちろん、大和閉店の影響などで、これからこの周辺の賃貸料も下がりつつある。だとすれば、若い経営者、起業希望者にとっては新しいチャンスとなるはずである。問題は、古くからの地主、家主、商店主などが、そうした新しい人材をどれくらい受け入れられるかにあると言える。

 新潟市内でも、いくつかの若い経営者がオープンさせた真新しい店を覗いてみたが、それぞれ工夫を凝らし、集客に努力している様子がうかがえた。こうした「芽」を地元がどのように育てていくのか。若い人たちに期待をすると同時に、「地域の後継者育成」を地元の人たちが考えてくれるようにと、思った新潟訪問だった。

☆この新潟訪問の前に、偶然なのですが、石川県中小企業団体中央会「会報」で百貨店について書いておりましたので、ここに掲載しておきます。

『百貨店の時代は終わるのか ~ 中小商業者に突きつけられる課題』  かつて、百貨店は華やかな都市の象徴であった。筆者の手元に、大正時代の宮一百貨店(現・大和百貨店)のチラシ(下の画像)が数種類ある。いずれも時代を象徴する華やかな百貨店の雰囲気が伝わってくるものばかりである。その百貨店が経営の曲がり角に差し掛かっている。   今年に入り、各地の百貨店の閉店のニュースが相次いで伝えられた。その中でも、西武有楽町店、そして、阪急京都四条河原町店の年内閉店のニュースは、驚きをもって伝えられることになった。  2008年以降、今年度中に閉店が予定されている店舗を一覧にしたものが、下の表である。これを見ると、各地から百貨店が消滅しつつあることを実感させられる。百貨店は、特に地方都市においては、商業地の中核をなすものとして、その存在感も大きなものがある。大都市部においては、閉鎖の後、別の商業施設が入居することが事前に決まるケースが多いが、地方部においては空きビルのまま放置されたり、地方自治体が借り上げて公共施設として使用するなどという事態が各地で発生している。  特に2010年度は、今まで最悪だったバブル崩壊直後よりも多くの百貨店が閉店するのではないかという予想もあり、今後も閉店や廃業を検討する百貨店が出現する可能性が高い。

 

   ・2008年から2010年の百貨店閉店一覧 2008年 3月 小倉伊勢丹(福岡)     8月 ちまきや(山口)   10月 横浜松坂屋(神奈川) 2009年 1月 ロビンソン百貨店札幌店(北海道)     2月 久留米井筒屋(福岡)     3月 三越武蔵村山店(東京)        三越名取店(宮城)        三越盛岡(宮城)        三越鎌倉店(神奈川)     5月 三越池袋店(東京)        三越鹿児島店(鹿児島)     7月 丸井今井旭川店(北海道)     8月 そごう心斎橋本店(大阪)     9月 西武札幌店(北海道)    12月 今治大丸(愛媛) 2010年 1月 丸井今井室蘭店(北海道)        松坂屋岡崎店(愛知)     2月 中合会津店(福島)     3月 伊勢丹吉祥寺店(東京)     4月 大和長岡店(新潟)        大和上越店(新潟)     5月 松屋浅草支店(東京)【4階から7階を閉鎖】        さいか屋横須賀店大通館(神奈川)     6月 大和新潟店(新潟)        大和小松店(石川)     8月 松坂屋名駅店(愛知)        阪急京都四条河原町店(京都)

   12月 西武有楽町店(東京)            ※新聞報道、百貨店各社ホームページ発表資料などから作成した。

 

 苦戦が続いているのは百貨店だけではない。JR秋田駅前に立地するイトーヨーカドー秋田店は、2010年11月の撤退を発表した。2005年にも撤退問題が浮上し、県や市が存続を依頼、賃貸料や公営駐車場への負担金の軽減などの優遇措置を実施、さらに駅前空洞化に対する駅前活性化のビジョン立案などで、イトーヨーカドー側が継続を決めた。しかし、今回、11月での閉店が決定された。  一方、京都の商業集積地である四条河原町では、阪急百貨店の撤退発表に次いで、今度はイオン系の商業施設「河原町ビブレ」が7月末での撤退を発表した。こちらは地下1階のみが直営のファッション専門店で、1~6階は生活雑貨の「ロフト」などがテナントとして入ったビルである。京都では長らく四条河原町周辺が商業集積地としての機能を保持してきたが、1997年のJR京都駅の新築、JR京都伊勢丹の開業以降、2007年には駅に直結するかたちでビックカメラが開業するなど、次第に京都駅周辺の集客力が強まっていた。さらに、2010年春には事業主体の経営破たんなどで開業が延期されてきた京都駅前の大型ショッピングセンターがイオンモールの経営受託で開業することが決まっており、四条河原町の集客力に大きな影響が出ることが想定されている。さらに、現在、JR大阪駅前の再開発が進んでおり、2010年問題と称される阪急と大丸の大幅増床、JR大阪三越伊勢丹の新規開店など、京都、神戸も巻き込んだ形での競争が発生する。その先手を打っての撤退だと考えられている。   秋田の事例と京都の事例は、現在、各地で起こっていることの縮図である。つまり、郊外、主要道路沿いへの店舗の集積による、市内中心部の集客力の低下に歯止めが掛からない状況があると言う点。そして、もう一つは、人口減少と高齢化による購買層の減少に反して新規出店が相次ぎ、慢性的なオーバーストア状況が生み出されている点である。  それにしても、百貨店の閉店の急増には、多くの人が衝撃を持って見守っているのではないだろうか。表に掲載した店舗の中には、出店後わずか数年で撤退したケースも含まれているが、地方の百貨店の場合、第二次世界大戦前からの営業や、あるいは昭和20年代から30年代からの歴史ある店舗も含まれている。多くの街では、都市としての象徴であった店舗も多い。それだけに閉店の報は、多くの地方都市で驚きと、地方経済を目の当たりにさせられた衝撃が強いと言える。Img011  百貨店の衰退にはどういった背景があるのかを少し考えてみよう。地方都市でタクシーに乗った時、運転手と地元百貨店の話になったことがある。年配の運転手は、次のように言った。「あそこの包み紙だと信頼できるんですよね。魚の切り身を買っても、その辺の魚屋とは違って、あの包み紙に包まれているとおいしいように感じる、いや、実際、うまいんですよ。」以前は、中元、歳暮やちょっとしたお届け物は、地元の老舗百貨店の包み紙でないといけないという人が多かった。有名百貨店の包み紙のデザインをコピーしたものが、文房具やで売られていたし、それを個人商店でよく使用していた。  しかし、現在ではこうしたこだわりを持つ人は少なくなっているだろう。スーパーやショッピングセンターに並ぶ商品は、以前と異なり、百貨店に並ぶ商品と、品質やメーカーも変わらなくなった。品揃えも変わらない。以前は、百貨店でしか入手できなかった輸入品なども普通にどこでも手に入るようになった。店舗販売よりも、外商で利益を上げるという百貨店ならではの経営手法も、地方企業の経営の悪化や、中元、歳暮の自粛などの中で継続できなくなりつつある。こうした変化は、この二十年で急激だと、多くの人は感じるだろう。百貨店でしか手に入らないというものが少なくなったのだ。それこそが、百貨店というビジネススタイルそのものを危うくしている。  あわせて建物の老朽化も問題である。地方の百貨店の建物の多くは、昭和30年代から40年代に建てられたものが多い。現在の建物に比較すると、天井が低く、空調やIT関連設備やエスカレーターの増設などを行うと、さらに狭隘なものになってしまう。耐震構造の問題も大きい。他でも手に入るようになった商品、老朽化した建物、そして、その立地は市内中心部であり、駐車場は有料であり、台数も確保できない。  もちろんこうした問題を解決すべく、駅前の再開発に参画し、増床を図るなどする百貨店もある。しかし、資金や市街地再開発の問題などから、そうしたことを実現できる百貨店は少数であると言える。  今年に入って、閉店や閉店予定が数多くでてきているのは、そうした背景に加えて、デフレ状況の継続と、不況の影響で消費者の購買意欲が低下していることなどがある。採算店舗は閉鎖し、採算性の見込める店舗に経営資源を集中させることで、現在の状況を乗り切ろうというのが経営陣の考えであろう。こうした傾向は、今後も続くものと考えられる。  さて、少し視点を変えてみよう。地方都市において百貨店は、商業集積地の中心施設として、不動のものとして考えられてきた。地域の商業者は、その集客力に依存してきた部分も否定できない事実だろう。しかし、そうしたことがある意味、甘えにつながってきたとも言えるのではないだろうか。各店舗が努力をしなくても、百貨店がある限り、お客を引っ張ってきてくれる。そんな考えが、当たり前のようにまん延してきたことは言うと言い過ぎだろうか。  集客力が強かった百貨店が衰退し、そして撤退して行った時に、試されるのは地元の個人商店、中堅企業の店舗などの本来の力である。西日本のある地方都市を例に考えてみよう。かつては、戦前からの老舗百貨店と、戦後に急成長した大手スーパーの店舗があり、県庁所在地と張り合うほどの商業集積地であった。まず、大手スーパーがその本体の経営不振と、郊外に次々と開業したショッピングセンターとの競合に破れ、閉店した。そして、最近になって老舗百貨店も閉店した。もちろん地元も手を打ってこなかったわけではないのだ。商店街の中央部にイベント用の公園と催し物のできる施設を建設したり、廃業した商店を借り上げて、チャレンジショップを開設して若手の開業志望者を集めたりした。チャレンジショップには若手開業希望者が集まり、顧客もつき、成功していった。地元での開業を希望するまでに成長したショップも出た。ところが、地元商店街の家主たちは、そうした若手に空き店舗を貸そうとしなかったのだ。「県庁所在地の一等地と同じ価格を提示してくるんです。こんなに空き店舗だらけなのに。そんな高い価格なら、ここでやる意味はないですよ。」「飲食店をしようと思ったら、夜遅くまでうるさい店はダメだと言われました。商店街なんですよ、ここは・・・」数年まえに若手開業希望者と話をした時に出てきた意見である。商店街の活性化を中心になって働きかけてきた人物は、契約更新もされず、去っていった。チャレンジショップも閉鎖され、開業希望者たちは、高い家賃を嫌って郊外の住宅地や県庁所在地で新規開業をして行った。空き店舗率は、現在20%台と言われているが、現地を訪問してみるとそれ以上の感じを受ける。  有楽町や京都四条河原町といった大都市中心部からの百貨店の撤退は、百貨店というビジネスモデルそのものが曲がり角に差し掛かっていることを示している。今後、百貨店はそれぞれが生き残りをかけて熾烈な競争を繰り広げるだろう。その中で、地域の商業者としては、百貨店に依存した経営を見直し、それぞれが魅力を見出し、その集合体としての商店街なり、商業集積地を形成していかねば、生き残ることができなくなる。かつての良かった時代を思い出し、引きずり、先にあげたある都市のように新規参入者を結果として阻んでしまい、ずるずると衰退してしまう道を選ぶのか。それとも時代が変わったと意識して、新たな街づくりに取り組んでいくのか。急増している百貨店閉店は、商業者や街づくりに関わる多くの人に、その決断の時期が来ていることを示していると言えよう。商売が厳しくなったのは、郊外型店舗ができたせいだと憤慨し、今度は百貨店が街を見捨てていくと嘆いてみても、状況は変わらないのです。  (掲載: 石川県中小企業団体中央会 「中央会会報No.4」2010年より)

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