敗北宣言。大阪の産業遺産資料は廃棄完了しました。
2009年3月26日をもって、大阪の万博公園に保管されていた産業遺産資料は、すべて無くなりました。
前に書いたものを参照していただければいいのですが、結局、誰も責任を取らず管理していた任意団体が解散になるため、所有者が無くなるということで、いきなり廃棄。
残念ですが、不運続きの産業技術史博物館構想であったと記憶に止めるほかない状態で幕が降りました。万博終了後、会場跡地に計画された二つの博物館。一つは梅棹忠夫先生が中心となった国立民族学博物館。そして、もう一つが、吉田 光邦氏が中心となり、幻に終わった国立産業技術史博物館。ずいぶん前のことだが、梅棹先生にお会いした時に、この産業遺産についてお尋ねしたところ、非常に行く末を心配されていた。その心配の通りになった。
保管に関して、巨額の費用が掛かってきたかのように勘違いしている人がいるので、あえて書いておくが、実はこの産業遺産の保管に関しては、1996年以降、全く予算措置が講じられていない。メンテナンスその他は、すべて武庫川女子大学の三宅宏司教授が個人の研究費を投じて、細々と行ってこられたのである。今回の収蔵物に関しても、最後の最後まで一括しての譲渡を探ってこられた。巨額の箱物を要求しておられたわけではないし、天下りの役人が悠々とやっていた団体でもない。
確かにこれだけの多くの資料、機械類、それも重量級のものが多く含まれていると、名実共に関係機関や行政にとってはお荷物になってきたことは確かである。しかし、なにより、今まで関係してきた担当者たちが、何度かのチャンスがあったにも関わらず、きちんとした議論を行わずに放置してきたことが今回の最悪の事態を招いた理由であることは否定できないだろう。
金属加工機械類が約六百五十点、鋳造関係が文書資料約二万点と機器類が約四百点、繊維工業機械類三十一点、火力発電機器類二十七点、工作機械類八点、理化学関係が文書約一千点と機器類約百点、製茶機器類八点、その他約四十点、実に膨大な資料収蔵物が、今回、すべて失われた。大半は廃棄されスクラップとされてしまった。また、残りも散逸し、二度と揃うことはない。
もちろん廃棄の報を聞き、慌てて駆けつけ、回収してくださった企業博物館の方や、製造業関係者の方たちも少なからずいらっしゃったし、遠方のために残念だという思いだけを寄せられた方もいらしゃった。「これらは文化財ですよ。それをこんな風に・・」と口にされた専門家の方もいらっしゃった。
「行政が不要だという結論を出したのだから、価値の無いものなのだろう」という考えを持つ方もいるかも知れないが、果たして行政はいつも正しい価値判断をしているだろうか。 今回、大きく残念だったのは三点である。 まず、一点は、こうした文化資料への行政の無理解というか、ここ一、二年、特に文化関係への無関心、無理解が当然のごとく振舞われていること。この点については、本件も含め、マスコミでもこれから報道されはじめるようだ。
二点目は、今回の廃棄に対して、駆けつけたり、問い合わせのあった企業や関係機関の多くが大阪府外であったこと。大阪府内の大企業は、知らなかったのか、それとも無関心だったのか・・・そんな中で大阪産業労働資料館(エル・ライブラリー)が、資料の引き受けを申し出られた。小さいながらも、大阪の民の意地というところかと、少しはほっとしたが。
三点目は、普段は大阪の文化が云々とか、あるいはヨーロッパの文化的なうんたらはとか、やかましい大阪の知識人たちの行動がなにもないこと。 専門外ではあるが、気持ち的には近くから応援したり、少しは動いたことがある人間としては、大いに悔やまれるし、同時に怒りもかなりのものである。いろいろご事情はあるのだろうけれど、今までの経緯を知り、今回の対応を横で見ていても、今回の問題に関わる関係機関にはかなりがっかりした。 一方で、ネットを通じて、リアルタイムでの情報伝達が行われ、迅速に行動を起こしてくださった多くの方たちによって、全てではないにしても廃棄という最悪の事態を免れた資料が数多くあった。そうした人と人のつながりに期待したいとも思えたのが唯一の救いだった。
もっといろいろ書きたいことはあるが、おとなの都合でこの辺にしておきたい。しかし、いずれにしてもこのような終わりを迎えたことは、私自身の力不足と、認識の甘さがあったことは否定できないし、自身の敗北宣言をしたいと思う。後悔と反省はこれからゆっくりしようと思っている。そして、恐らくこの件は、私のこれからのさまざまな判断に影響を及ぼすだろう。 ※廃棄される直前の様子(YOUTUBE)
参考
☆エル・ライブラリーの動き ⇒ [産業資料救出作戦]