幻の産業技術史博物館について
最近になって、なぜかまたこの件に関して、私の周辺で話題になったり、あるいはお問い合わせをいただいたりということがありましたので、データを引っ張りだしてきて再録したものです。
本稿そのものは2000年に執筆したものです。(なお、本稿は桃山学院大学総合研究所刊『大阪の産業記念物』第28号(2005年3月)にも掲載されており、この号には他にも産業技術史博物館に関する論文が掲載されておりますのでご参考下さい。)
文中でも記載しておりますが、本稿を執筆時には、大阪万博公園内の国立国際美術館の建物に併設されていた旧三越食堂に保管されていました。
この建物は、大阪万博開催中に「万国博美術館」として使用されていたものであり、旧三越食堂はその建物と一体化していたたために取り壊しの免れたものです。1977年には、国立国際美術館として開館し、旧三越食堂は倉庫として使用されてきました。
しかし、建物の老朽化がひどく、美術館は2004年1月に休館し、大阪市内の中ノ島に移転、同年11月に新規開館した。その結果、大阪万博内の建物は、同年末までに取り壊されました。
そのため、旧三越食堂に保管されていた産業遺産は、現在、同じ大阪万博公園内の旧鉄鋼館内に保存されています。
大阪万博からすでに40年近くが過ぎようとし、ご存命の関係者も少なくなりつつあります。それに伴い、こうした計画があったことや、収蔵物が保管されていることを知る人も少なくなっています。本稿を執筆した十年ほど前も、景気が悪く、「どうしようもない」という雰囲気で終わってしまいました。私自身も、関係者にお願いしたり、なんとかと動いてみたこともあったのですが、なにより力不足であり、どうすることもできませんでした。
その後も、収蔵品の保存管理に尽力されてきました武庫川女子大学の三宅宏司教授をはじめ関係者のみなさまには、本当に頭の下がる思いと、その後、なんらお役に立てていない不明を恥じるばかりです。
今、また一部の方たちにしろ、関心を持っていただけるようになってきたことは喜ばしい限りでありますし、この計画に関係なさった方たちもご高齢になっていることから、ぜひ多くの方に関心を持っていただき、今後、どのようにしていくのかの議論が起これば幸いと考えております。
そのような考えから、今回、ここに再録することといたしました。
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『幻の産業技術史博物館』
中 村 智 彦
*本稿は2000年に執筆したものであり、本掲載にあたり一部修正をしております。
⇒はじめに
大阪の万博公園の中に,約2万点に及ぶ産業遺産が眠っている。そんな話を聞かされた。実は現在,万博公園内にある国立民族学博物館の隣には,もう一つ国立博物館が建つ計画があったのだ。その博物館が,産業技術史博物館。その博物館に展示収蔵されるはずであったコレクションが今なお,人目に付かず保管されている。いや,保管というには辛すぎる状況である。このままであれば,一歩間違えれば巨大なゴミとして処分されてしまう可能性すらあるのだ。行財政の悪化は,仕方のない話であるが,しかし,貴重な遺産を消失させてしまうのは,次世代へ禍根を残さないか。
貴重な物は,良好な状態で残すべきではないだろうか。今,博物館の建設を求めようというのではない。少なくとも,保管場所だけはきちんとしてもらえないだろうかという考えを,多くの人たちに知ってもらいたい。
なぜ,こんな状況になっているのか。実は,日本万国博覧会が閉会した直後から1980年代頃までは,博物館の開館は確実なものと考えられていた。しかし,状況は徐々に悪化し,中心に活動を続けていた吉田光邦元京都大学教授の死去後,立ちいかなくなってしまった。
すぐに博物館ができ,収蔵物は引き取られると思われていたために,すべてがきちんとした取り決めなく,行われてしまった。たとえば,保管されている場所は,1970年の万博の時に三越食堂として使用された建物である。内装は取り払われ,30年間,補修も行われなかった建物は,老朽化が進み,雨水の漏れも激しくなっている。(2008年現在、旧鉄鋼館で保存。)
それだけではない。所蔵物の所有者すら,明確ではなくなっているのである。
多くの企業や個人の善意で寄贈され,運ばれてきた貴重な産業の遺産を,このまま放置していてもいいのだろうか。少なくとも,保管場所だけでも,整備できないのだろうか。ちなみに,先進国できちんとした産業の博物館が無いのは日本だけと言ってよい。文化とか集客とかを謳い文句にするのであれば,こうした産業遺産にも目を向けて欲しいものである。
1.「産業技術史博物館」問題について
1998年に開催された『21世紀の関西を考える会』の「国際公共財検討チーム」の会合の席上,関西経済を支えてきた「ものづくり」に関して,教育や資料保存がおくれているのではないかという話になった。
欧米諸国では,産業に関する博物館,資料館が整備され,子供だけでなく大人にまで広く親しまれている。それに引き換え,日本では製造業,「ものづくり」に関する総合的な博物館が存在しない。こうした議論の中で,「実は大阪の万博公園の中に,重要な産業遺産が保管されている」という話が飛び出した。
万博公園に隣接する高校を卒業した私にとって,庭のように感じていた場所に,なぜ二万点もの貴重な産業遺産が,市民の目に触れること無く保管されているのか。こうした疑問が,「国立産立産業技術史博物館」構想について調べるきっかけとなった。
*「21世紀の関西を考える会」・・関西経済連合会の関係団体として、1995年から6年間、関西の経済や文化などを調査研究および提言を行う機関として設置されたもの。
2. 「国立産業技術史博物館」構想とは,なにか
① 大阪「産業博物館」構想
1978年11月,当時京都大学教授であった吉田光邦氏らが中心となった「産業史博物館を考える会」と大阪商工会議所が懇談し,これ以降,博物館構想案が進展する。
翌1979年には,大阪商工会議所は産業記念物の所在調査の実施を決定した。この調査を実施するため,桃山学院大学総合研究所が中心となって1980年に産業記念物研究委員会を設置した。委員会では,大阪を中心とした関西地区の産業記念物の調査を行うと同時に,企業博物館の関係者等を招いた研究会を開催し,ニューズレター「大阪の産業記念物」を発刊するなど活発な活動を行った。
そして,1982年には,大阪商工会議所によって,『大阪の産業記念物に関する調査研究および博物館構想』という報告書が発刊された。この報告書では,実施された調査研究活動は「失われていく産業記念物を収集,保存,展示し,わが国の産業発展のために有効に利用していく産業博物館のあり方をさぐるべく」実施されたものであるとし,「大阪産業博物館」の保存・展示ならびにあり方についても提言を行っている。この報告書における提言は,後の「国立産業技術史博物館」構想に大きな影響を与えている。
しかし,その詳細を見ると,次のような相違点を見いだすことが出来る。第一点目は,「大阪で栄えた産業を中心に」し,「大阪で栄えた産業を中心に」し,「大阪の埋もれた産業記念物を発見して,産業史,技術史,地域史的に位置づけることは必要」というように,大阪の地域性にこだわっている。次に第二点目として,「異なる産業界の記念物が保存施設に集められる場合,その産業の地よりもあまり離れたところに置かれるよりも,大阪北部の産業の『モノ』は北部地域に,南部の『モノ』は南部地域に,東部の『モノ』は東部地域に分散して保存される方がよい」と指摘し,分散資料館の設立を提言している。また,それらを結びつける機能を中央館である産業博物館を設置することによって可能にする「オープンエリアネットワーク方式」を提案している。さらに第三点目として,組織も異なっている。「大阪産業博物館」構想では,「研究機能と教育機能を併せてもち」,「児童,生徒,学生及び一般社会人の研修の場である」と述べられているものの,国立大学共同利用機関のような大学院課程を保有する高等教育機関を想定しているわけではない。
②「国立産業技術史博物館」設置運動の高まり
こうした一連の動きを受けて,1979年からは大阪府から文部省に対して,「国立産業技術史博物館」設置要請が継続的に行われるようになった。
1984年4月には,大阪工業会が設立70周年記念行事の一環として,「国立産業技術史博物館」設置運動を決議した。また,同じく7月には,故吉田光邦氏を会長に,日本産業技術史学会が設立され,これ以降,大阪の産業界,学会を中心に「国立産業技術史博物館」に関する関心が高まった。
1986年4月には,大阪工業会,日本産業技術史学会,大阪府を中心に産学官16名からなる「国立産業技術史博物館誘致促進協議会」が発足し,誘致活動が本格化する。
協議会での議論を基に,1988年11月には「国立産業技術史博物館(仮称)構想」が発表された。この構想では,「研究所と博物館の両機能を有機的に結合」させ,国立民族学博物館と同様に国立大学共同利用機関として設立されることが提案されている。そのため,保有すべき機能としては,調査研究,共同研究,大学院教育,収集,管理,復元,公開といった機能に加え,産業技術史に関する情報センター,市民大学,企業の研修センターといった機能が想定されている。研究組織も,それらの機能を反映し,技術社会系,技術思想系,技術文化系,産業技術系,国際交流系,復原技術系と,経済,哲学,文化,工学など幅広い領域を網羅することとなっている。展示内容については,「狭義の産業技術史にとどまらず,広く科学,社会,経済,文化,国際交流を総合する。技術文明史の全容が把握され,かつ,未来の科学技術の発展に貢献するもの」を目指し,「入館者にも実際に機械等を作動させることのできる動態展示を多く採り入れるなど,いわば参加型の展示」を行うことを提案している。資料には,博物館の展示スケッチが掲載されている。これによると,大阪市四ツ橋付近の過去と現在を模型と写真などで展示する都市の変遷のコーナーや,滋賀県に現存する人力製薬機械のレプリカの展示,あるいは実際に利用でき古典的な遊具などの展示が計画されている。これらは,当時すでに開館していた国立民族学博物館や,国立歴史民族博物館と共通したコンセプトであった。
③誘致活動の低迷とその後
1994年12月には,(社)研究産業協会が主催する第二回「産業技術の継承活動」全国交流会が大阪で開催され,誘致促進協議会はその活動をPRした。
しかし,この頃を境に誘致活動は,経済の低迷の影響を受け,沈滞化する。例えば,大阪府の「国立産業技術史博物館」の誘致促進活動に対する予算も,1994年度の150万円から,1995年度には100万円に減額され,1996年度の85万円を最後に打ち切られている。これは,厳しい財政難と社会情勢の変化などから,博物館構想の実現は,当面困難であるとの考えからである。
協議会のPR活動としては,最後の予算を活用して1998年3月に作成された『産業技術史資料収蔵品一覧』が現在のところ最後となっている。
3. 眠る膨大な収蔵物
収蔵物の収集が行われたのは,文部省科学研究費補助金特定研究『近代日本産業技術の実態調査及びその発展過程に関する実証的研究』が実施された1984年からである。
「期間中はもとより,現在もなお引き続き各調査員はこれら国民的財産ともいえる貴重な資料の亡失を座して見るに忍ばず,いわば緊急避難的措置として引き取ることとした」と,その収集の経緯が説明されている。
1997年現在で,収集されている品目は,金属加工機械類が約六百五十点,鋳造関係が文書資料約二万点と機器類が約四百点,繊維工業機械類三十一点,火力発電機器類二十七点,工作機械類八点,理化学関係が文書約一千点と機器類約百点,製茶機器類八点,その他約四十点となっており,すでに膨大な資料収蔵物がある。
日本の工業の発展とその歴史を示してくれる機械類が数多く残されている。大阪を代表する産業の一つである金属加工工業に関する資料も多い。
明治末期頃に使用されたベルト掛製釘機は,外国製を模倣しながらも,入手困難であった鋼鉄に変えて,竹と木のバネを使用するなど,当時の貧しい状況の中で,工夫を凝らし工業製品の製造を行っていたことをしのばせる。当時,大阪には木バネ屋なる商売まであったというから,驚きである。
大阪車両工業株式会社から寄贈されたボール盤および旋盤は,戦前に日本陸軍がドイツから輸入,大阪砲兵工廠で使用されていたものである。
大阪府立淀川工業高等学校から寄贈された歯切り盤は,終戦直後に民家二軒程度の巨額を投じて輸入されたものであり,戦後復興にかけた当時の人たちの意気込みを知ることができる。
また,昭和30年代の町工場で使用されていた工具類,今では国産されていない金属製呼び子の実物と金型なども残されている。
鋳造関係では,奈良県五位堂で奈良時代から鋳物師であった杉田家の資料が寄贈されており,江戸期以降の文書類,生産用具,製品など貴重なものが数多く含まれている。その中でも,実際に使用されていた長さ約5.8メートル,幅約1.85メートルの木製天井走行型クレーンは,国内に現存する最大級のものである。これら資料を寄贈した杉田家は東大寺大仏建立にも関わったとされる名家であり,歴史学的にも貴重な資料が含まれている。
繊維産業も関西地区の代表的産業のひとつであるが,収集物の大半は,第二次世界大戦前のものである。京都・西陣織協同組合から寄贈されたジャガード写し彫り機は,1909(明治42)年にフランスから輸入された物である。
その他,産業を支えてきた発電所関係の大型機材も保管されている。これらの中には,1933(昭和8)年に運転を開始した関西電力尼崎第一・第二発電所で使用されていた設備の一部が含まれている。この尼崎発電所は,建設当時,国内最大規模を持ち,また機材の大半が国産で建設された画期的なものであり,資料的価値も非常に高い。
4. 深刻化する保管問題
収蔵物は,万博記念公園内の仮収蔵庫に保管されている。しかし,「収蔵庫」というのは名ばかりで,実は万博博覧会当時の食堂跡である。1970年の万国博開催当時,三越食堂として使用されていた建物の水道,ガス,電気等を撤去した跡を,仮収蔵庫として使用しており,建築後30年を経過し,建物自体の傷みもかなり進んでいる。換気等の設備も,照明設備も無いために,整理作業なども日中に限られ,夏や冬には気温の影響も受けやすくなっている。唯一の利点は,基礎工事が堅牢に行われているため,工作機械など重量物の保管に床が耐えられるという点でる。また,最近になって新たな問題が浮上してきた。この建物は国立国際美術館に隣接し付帯設備として残されているものである。近く,国立国際美術館は中之島への移転が決定している。現美術館の建物自体も老朽化が進んでおり,閉館に併せて解体される可能性も高い。(注 現在は、旧鉄鋼館に収蔵されているが状況は大きく変ったわけではない。)
このため,仮収蔵庫もその時期に解体される可能性も捨てきれず,その際には収蔵物の移転が大きな問題になるのは必至である。重量物が置く,運搬,設置には新たな費用が発生することも避けられない。ただ,機機械類の大半は,現在でも動力を接続すれば稼働する良好な状態で保管されている。これは,管理を行っている武庫川女子大学の三宅宏司教授の御尽力に依るものである。仮収蔵庫屋上の除草や,資料の整理,整備に関しては,三宅教授と学生たちのボランティア的活動によって維持されている.
5.収蔵物保護へ産官学の連携を
先にも述べたが,資料が収集された当時は,博物館の建設が遠くない将来に実現するものと思われていた。
その結果,保管庫が正式のものではないだけではなく,実は収蔵物の所有関係もはっきりしていない。現在,日本においても近代産業遺産の保存,伝承がマスコミでも取り上げられ,多くの人の関心を集めるようになってきた。ここで述べてきたように,すでに二万点を超す貴重なコレクションが存在しているのである。単なるノスタルジーだけではなく,観光資源としての活用,さらには新産業創出のための産業教育の一環としての活用などが考えられる。また,発展途上国から日本経済を学びに来る多くの人たちは,明治以降の産業発展の歴史は自国の経済開発に非常に有益な事例であると指摘する。こうした人たちの研究や学習のため,国際協力の一環としても,優れた資源であると言える。
関西の,それも大阪にこれだけのコレクションが眠っていることを,また,そのコレクションが散逸の危機に瀕していることも,ほとんど知られていない。集められている収蔵物の大半は,関西の多くの個人や企業の善意で寄贈され,運ばれたものばかりである。こうした収蔵物が,結果的に関西で活用できず,他地域に分散されることになるのは,関西の将来にとって大きな損失以外の何ものでもない。現在の経済状況下で,博物館や常設の展示場を設置することは,非常に困難であることは理解できる。しかし,せめてこれらコレクションを良好な状態で次世代に伝承できる保管場所(施設)の確保と,年数回だけでもそれらを一般の人たちに公開できるような仕組み作りができないであろうか。産官学の協力・連携によって早急な対応がなされることを強く訴えたい。 ※※※※※※※ 出所: 桃山学院大学総合研究所刊『大阪の産業記念物』第28号